存在そのものがメッセージになる

愛ある思いが、言葉を紡ぎ、人と人とをつないでいく

楽に生きることに、苦を理由にしなくていい。

『人生、楽ありゃ、苦もあるさー♪』

 

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時代劇の水戸黄門のOPの冒頭です。

 

楽しいことと苦しいこと。

 

苦楽を共にするという言葉があるぐらい、日本人の身体に染み付いている言葉です。

 

大学生の頃、よく聴こえてきた言葉では、

 

『就職したら、遊べなくなるから、遊ぶなら、今のうちだよなぁ』

 

『自由なのは、大学生までだから、好きなことはしておきなさい』

 

今を、めいっぱい楽しむ学生を、

 

リア充

 

なんて言われていました。

 

楽しいことの後には、苦しいことがあるから、楽しめる時に、思い切り楽しめばいい。

 

まるで、苦楽は共にあることが、共同幻想のように、まとわりついています。

 

この考え方に触れるとき、

 

僕は、

 

楽しむことに、

 

罪悪感が、まだまだあるのだと思います。

 

子供のうちは、

 

学生の内は、

 

若いうちは、

 

年をとったら、

 

そうやって、期間限定で、楽をすることをゆるすことによって、苦を味わうことを正当化しています。

 

お菓子で、期間限定というと、普段では、食べられない特別なものです。

 

楽しいことは、特別なものなのだと私たちは思っているのでしょうか?

 

『A Course in Miracles (奇跡のコース)』の中では、

 

人や好きなもの、楽しいものだと感じるものに対して、

 

特別性という言葉を使いながら、

 

自分が、特別なものだと感じるものは、

 

自分には足りないものがあると、

 

幻想を抱いている時だと説明しています。

 

楽しいことは、幻想であり、足りないものを埋めるためにするもの。

 

最初に、私が、この説明を聞いたときには、

 

もし、楽しいものが幻想だと気付いてしまったならば、生きている楽しみが無くなってしまうのではないかと、思いました。

 

この時点で、楽しいものに対して、

 

無くなってしまうという恐れがあったので、

 

すでに幻想でした。

 

楽しいものは、すでにあるのです。

 

空気は、目には見えませんが、

 

水の中に入って、息が出来なくなったときに、

 

地上に顔を上げると、

 

息が出来るようになって、空気がある事に気付きます。

 

苦しいことが前提にある上での、楽しいことは、特別なもののように見えてしまうのです。

 

苦は、自己否定をしている『わたし』が、産み出してしまったもの。

 

その前提で言うと、楽は、『わたし』の本質であるがゆえに、自己否定をしていると、罪悪感をくっつけて、後ろめたいものと無意識に見てしまう。

 

今、生きていることに、一瞬一瞬を感じることが、穏やかで、静かであることを、

 

退屈さや、つまらないさとして、

 

無為の物にするのも、

 

与えられているものに対して、

 

ただ手を差し出して、その中に宿るものを受け取るのか、

 

苦楽に分離された、1つ1つの出来事に対して、ジャッジを下していくか、

 

生きていることそのものを、祝福されているものだと、ただ感じてみるか。

 

楽しいことは、既に与えられ、慈しみ深く、佇んでいます。

 

楽に生きることに、苦を理由にして生きることはないです。

 

楽に生きたければ、そっと目を閉じて、静かなるものを感じてみてください。

 

今、心の中で気になっていること、

 

ザワザワしている出来事さえも、

 

ただあるものと見ているだけで、

 

本当は、幼い頃に置いてきてしまった忘れものが、そっと今に現れて、いつでも取りにいける事だと思って見てください。

 

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