存在そのものがメッセージになる

愛ある思いが、言葉を紡ぎ、人と人とをつないでいく

導かれるままに生きる

2019年も今日で終わり。

 

プライベートでは随分と静かな1年であったけれど、色々なことがあった。

 

まず平成から令和に変わると同時に、僕の中で『パチン』と何かが切り替わった。

 

そうしたら、生活の中心になっていた『奇跡のコース』の日々のレッスンの文章が令和初日にいきなり読めなくなり、手放すことになった。

 

じきに、付き合っていた人とも別れた。

 

ある季節が終わって、次の季節がやってきた。

 

いや、変わっていることはずっと感じていて、少しずつ見える景色が変化していて、気が付いたら、景色が一変していただけかもしれない。

 

自然の流れには逆らわない。

 

逆らうと止まってしまう。

 

止まってしまったら、苦しくて苦しくて息が出来なくなる。

 

そうなれば、息を吸うために、身近な人を攻撃しながら歩いていくことになってしまう。

 

そして、傷みを伴いながら、ある時、強制終了の合図と共に、舞台から引きずり降ろされる。

 

僕は、そんな結末は迎えたくなかった。

 

なぜなら、誰も幸せにならないからだ。

 

『サイン』が来たら、然るべき行動をただするだけ。

 

導かれるままに生きる。

 

そうすれば、必要なものは必ず与えられる。

 

2019年に確信したことであり、『2010年代』の総まとめのように、答えあわせをいっぱいした1年だった。

 

さて、干支が一回りして元に戻る2020年。

 

ブログも『はてなブログ』から『note』にお引越しします。

 

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宜しければ、今後ともご愛読よろしくお願いします。

 

それでは良いお年を!f:id:kinpati1625:20191231220302j:image

 

自ずと気付ける幸せ

先日、清掃を一緒にした代表の方に思い切って聞いてみたことがあった。

 

『どうして、今まで、あれこれ言わずに僕のやり方で、清掃を任せてくれたんですか?』

 

すると、代表の方は

 

『それは、僕は立場的に、晋太朗さんをコントロールすることは出来るんですけど、それをすると、僕の価値観の中に、晋太朗さんを引き入れてしまうことになることになるから、余程のことがない限り、何も言わなかったんです。』

 

さらに、

 

『コントロールすると、晋太朗さんの意識が『外』に向いてしまう。そうすると、晋太朗さんが、自分から気付く機会を奪ってしまうから、あえて、何も言わなかったんです。』

 

と答えてくれました。

 

………

 

………

 

………

 

………

 

………

 

感動しました。

 

と同時に

 

衝撃的でした。

 

両親、教師、上司、先輩、コーチ、メンターと言った『教える側』の立場の人達が

 

『学ぶ側』の人の『クセ』や『直すべき点』を教えることはものすごく簡単なことで

 

熱意があったり、何とかしてあげたいと思っている人ほど、熱心に言葉を尽くして教えるだろう。

 

そして『学ぶ側』の中でも、

 

特に素直な人だと、『言われたこと』を一生懸命吸収しようとするだろう。

 

でも、

 

素直で真面目な人であればあるほど

 

言われたことに『囚われてしまう』

 

囚われると『教師』の価値観の中で『世界』を見てしまい、

 

知らず知らずのうちに『教師』に『コントロール』されることになり、『学ぶ側』の人達が自分から気付くこと機会が奪われていく。

 

勉強やスポーツと言った『専門知識』や『技術』を要するものであれば、教え込む時も必要だと思う。

 

だけど

 

個人の『生き方』に関わること。

 

とりわけ、今なら自己啓発や心理学、スピリチュアルの分野においては、

 

『教える→教わる』という関係性だけでは、『自分自身の輪郭』が見えないことが多い。

 

むしろ、『教師』が作っている『枠組』の中から一旦出ないと、扱われている『知識』や『コンテンツ』の中身を腑に落とすことは出来ないこともある。

 

これは、僕が26歳で会社員を辞めて、4年間、ほぼ仕事をしないで、『学び』に費やして学んだことだった。

 

本当の『学び』は『理論』の中にではなく

 

実生活の中での『体験』の中に隠されていた。

 

人と交わったり、清掃の仕事をする中でした失敗だったり・・・

 

『クセ』や『繰り返している』ことが浮き彫りになり、自分で気付けるようになっていくと

 

少しずつだけど、清掃の仕事で今まで見えなかったことが見えてくるようになった。

 

そうやって慣れていくうちに、気持ちが楽になり、人前でよく笑うようになった。

 

自ずと気付きが内面から溢れたときは、『ハッ』とするし、

 

時に、嬉しさに浸ることもある。

 

その時に感じるのは、ずっと探していた宝物を見つけた思いだ。

 

これからの人生も『気付き』と共にずっとあると思うけど、

 

まずは、自分から『気付く機会』と『場』を惜しみなく与えてくれた清掃の代表の方に感謝の思いを込めて!

 

ありがとうございます。

 

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明治神宮で偶然撮れた『宝珠』のような光!)

『雪かき』に宿る無条件の愛

もう随分と長い間、書棚の片隅にひっそりと佇んでいた『ある1冊』の本が物凄く気になり、

 

思わず手に取り、ページをめくってみた。

 

その本の名は、

 

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス

 

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読み進めていくうちに、

 

今の僕の生活に必要な『ワード』に出会った。

 

それは

 

『文化的雪かき』という言葉。

 

ライターをしている主人公の『僕』は、仕事の選り好みもしないし、期限前にはきっちり原稿を書き上げ、丁寧に仕事をする。

 

他の人が手を抜くところを真面目にやり、ギャラが安くても文句を言わず、黙々と仕事をこなす。

 

そして、急な依頼が来ても、必ず時間内に仕上げ、原稿を渡す。

 

おかげで、僕の評判は上がり、仕事がどんどん舞い込んでくる。

 

そんな『僕』は『仕事』を『雪かき』と同じものだと言う。

 

夜に積もった雪を、朝の通勤通学の人達が出掛ける前にそっと道端に寄せておくようなもので

 

人の目に付くものでないけれど、誰かが引き受けないと『循環』していかないもの。

 

そのことを『雪かき』に喩えている。

 

自分の仕事に『使命』も『実現したい思い』も『伝えたいもの』も『こだわり』も特にないけれど、

 

与えられた仕事をただ黙々と丁寧にやり続ける。

 

やれやれ。

 

なんと深みのある言葉だろう。

 

『雪かき』の喩えは、僕がしている『民泊清掃』の仕事を的確に表現している。

 

ゲストが退室した部屋の扉を開けて

 

ゴミ箱の中にあるゴミ袋を取り出し、

 

新しいものに取り替えたり、

 

ベッドカバーや布団のシーツを洗濯・乾燥して、また取り付けたり

 

床に落ちている髪の毛を掃除機で吸ったり、

 

ベッドの下に溜まった埃をクイックルワイパーで取り除く。

 

使われた食器を所定の位置に戻し、溜まっているゴミをゴミ捨て場に出して、元にあった姿に戻す。

 

一言でいえば、『ゼロ』に戻す仕事。

 

ゲストが入室する時には、もう僕はいないので、僕の仕事をしている姿を見られることはないけれど、

 

ゴミ箱に捨ててある食べ物の容器とか

 

隅っこに溜まっていた埃とか

 

キッチンの排水溝からしていた臭いは

 

無くなっていて綺麗になっている。

 

それらも、道端に積もっている雪を道端に寄せておくような、誰かがやらないと『循環』していかないもの。

 

村上春樹さんが『雪かき』と表現したものは

 

まさしく『清掃』の仕事の本質を突いていました。

 

そして、世の中にある仕事の本質を結構突いているんじゃないかな?

 

清掃の仕事をする前の僕は

 

好きなことを仕事にしようとしたり

 

人の役に立ちたくて仕事を探した時期もあったけれど

 

本当は、人から賞賛されかったり

 

認められたかったりする動機から来ていた。

 

自分に自信が無かったから、人から承認してもらおうとしていた。

 

清掃の仕事を黙々と続けて1年が経って

 

ゲストが使った部屋を元に戻すことを繰り返していくうちに

 

今まで、人からの評価や賞賛が欲しくて、『条件』をいっぱい付けて、仕事を取り組んできたことに気付きました。

 

『雪かき』仕事は、誰の目にも付かないし、見栄えもいいわけでないけど、僕たちが安心して生きていくためには、不可欠なもので、

 

つまり、気持ちがゼロになるからこそ、『無条件』に人に与えている尊いものであることを清掃の仕事を通じて体感しています。

与えられたものをゆるすとき

今年1年お世話になりました。

 

私事ですが

 

11月よりご縁が繋がり、民泊施設の清掃の仕事を始めました。

 

およそ3年ぶりの長期の仕事です。

 

2015年に会社員を辞めてから、短期アルバイトを除いて、仕事をすることはありませんでした。

 

その理由は、

 

仕事で人と接するのが怖いからでした。

 

なぜかというと

 

3年間、仕事をしてきて、

 

指示がどうしても理解出来ない

 

その結果、ミスが多発したり

 

理解したと思っても、指示された内容と逸脱することをしてしまったり

 

周りがフォローする羽目になり、イライラさせてしまい、

 

コミュニケーションが取りにくくなる環境になってしまう。

 

自信も無くなり、

 

周りの目を極端に気にして

 

言った方がいいのか考えた方がいいのか?

 

また責められたり、見限られたりしないか?

 

常に緊張状態で疲弊していました。

 

自分に原因があるのを分かっていただけに

 

とてもつらかったです。

 

だから、疲弊し切って会社を辞めてから

 

いくら貯金があるからといっても

 

人をイライラさせたり

 

攻撃的な場面に出くわしたくなくて、

 

仕事をしない選択をしていました。

 

この間、『奇跡のコース』のレッスンをしていました。

 

そこでよく出てきた言葉が

 

『ゆるし』でした。

 

人を許すことは分かっても、自分をゆるすことは、いまいち意味が分かりませんでした。

 

その後も、

 

『自分を愛すること』

 

『自分を受け入れること』

 

と言われたり、目にしたり、

 

時に人を通じて思い出したりしましたが

 

腑に落ちることはなかったです。

 

ところが、今の清掃の仕事を始める際、

 

代表の方が

 

『分からないことがあったら何でも聴いてください』

 

と言ってくれて、

 

時に、誰でも知ってるであろうこと

 

普通ならば、聞かなくても理解できることでも

 

ミスをしたことでも

 

責めることなく、丁寧に説明してくれて

 

安心して働くことが出来ています。

 

時に、指摘されたことに対して

 

ドキッとして自責することもありましたが

 

その時に、奇跡のコースで度々出てくる

 

『攻撃』『防衛』の話を思い出して攻撃を信じているのは自我が反応的になり、

 

『自分には関係が無い』

 

『間違えているのはあいつであり、私は正しい』と思い、

 

自分の影を隠そうと必死になっていたことに

 

気付きました。

 

人から言われたことで傷付けられたと思ったり

 

傷ついたと思ったことは

 

攻撃を受けたと自我が必死に反応していているからです。

 

人からの攻撃や否定的な言動で

 

人前で恥ずかしい目にあったとか

 

惨めさを体験したとかも

 

見るのは『攻撃』を信じている自我であり

 

ザワッとしたり、イライラしたら

 

目の前に来た人は、

 

頭で、このテーマは終わったと思っていても

 

本当はまだ終わっていなくて

 

自我が作り出すドラマを浄化の為に現れた

 

神の使者でした。

 

そして

 

自分が持って生まれた気質を受け入れることが、

 

『ゆるすこと』であり、

 

与えられた気質を否定していると

 

自分の影が外に反射して、

 

愛が反転して恐れになり、

 

気になる事を感じたり、言われたりして

 

ザワッとすることが起こっていました。

 

そういう場面に出くわした時は

 

自分で処理しようとしないで、

 

ザワッとさせた自我の感情に対して

 

本当の姿を見せてくれるように祈る。

 

そして、肝は

 

『自分でやらない』ことでした。

 

仕事で出会った場面、

 

直面したことで出てきた感情を祈りに使い

 

同じ場面に出くわしたときに

 

前と感じることが変化して

 

静かな気持ちになっていたことを見つけて

 

感謝の思いが湧いたとき

 

奇跡が現れました。

 

仕事で人に接することを恐れてましたが、

 

その場面にもう一度出くわして

 

感じることで思い込みが浮き彫りになり

 

祈ることで浄化する。

 

そして奇跡が現れる。

 

だから、どんなに人を気にしても

 

言われても

 

その言動や存在、態度にザワッとすることがあれば、

 

自分自身の心の中にわだかまる感情が投影しているので、

 

気になる人があなたの癒しの為に現れて

 

あなたと目の前の人が実はひとつであったと

 

奇跡を通して分かるのです。

 

感情が表出する人ほど

 

【あなたはわたし】であることを

 

教えてくれる人です。

 

この世界は、全て私一人であり

 

その私は、『わたし』でなく、

 

『ひとつ』であるので、

 

ぜひ怖がらず、どんな時も自分の気持ちを見つめ続けてくださいね。

 

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人に頼ることが調和につながる

今日は、『プライド』について書きます

 

プライドって

 

一般的には『プライドが高い』

 

いう使われ方をしています

 

そして『プライドが高い』というと

 

圧倒的に男性のイメージがあります

 

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僕が接してきた中では

 

他にも

 

競争社会を生き抜いてきた男性性が強い女性や

 

専門性を売りに

 

知識がたくさんある人達も

 

プライドが高い人が多かったです

 

『プライド』は

 

スポーツやアーティストなど

 

個人で成果を上げていく場面では

 

強みになっていきますが

 

職場やコミュニティーの場では

 

思わぬ軋轢を生むこともあります

 

僕が食品メーカーの店舗管理の仕事をしてたとき

 

各店舗の店長やリーダーが

 

『プライドが高い』人だったとき

 

同じ職場で働く人達と

 

溝が出来てしまうケースが多々ありました

 

店舗の責任者である彼らも

 

周りを考えてしていることだったり

 

売上を上げるために考えていることだったり

 

するので

 

『善意』からしていました

 

それなのに

 

職場で関わる従業員の人達

 

営業担当の人達と

 

上手くいかなくなってしまう

 

その事実が、当時の僕には、よく分かりませんでした

 

ある時期に店舗で揉め事が多発していたとき

 

面談を行うことがあり

 

『プライドの高い』店長達と

 

じっくりと話を聴いたときに

 

ある原因が見えてきました

 

それは『自分の考え』を譲れないことです

 

大抵は、店長になるまでは、周りの評価が高かった仕事の出来る人達でした

 

そして、自分のやり方を確立している人達でもありました

 

一度、確立したものが

 

人の上に立ち、指導する立場になったとき

 

店舗の従業員同士の調和を考えて

 

周りが動けるように整える環境を

 

作るのではなく

 

周りにも『自分のペース』でやることを

 

無意識に強要していました

 

自分の考えを譲れなかったり

 

周りを受け入れるスペースがなかったりして

 

分離感を強めていました

 

そして孤独であることを口にしていました

 

彼らを通して見えたのは

 

プライドが生む軋轢が

 

店舗であればお客さんを巻き込み

 

店舗に大きな利益をもたらしていく

 

周りと繋がることで生まれる強いエネルギーを

 

阻んでいたことです

 

プライドって『自分』に執着するときに出てくるものだったんです。

 

大体、プライドが出てくるときは

 

恐怖心が出てくるときや

 

変化を促される場面に遭遇して

 

『自分のやり方』を捨てて、周りの人達と調和していく機会がきたときに

 

『過去の自分のままでいた方が楽だ』という

 

自我が強烈に反応しているときです

 

プライドが高い人がいたとき

 

あるいは、

 

自分自身がプライドが高くて苦しい経験をしてしまう人は

 

調和を通して見えてくる自分の向いているもの

 

を受け入れることが怖いのかもしれません

 

僕が経験した担当店舗の店長達も

 

店舗を一緒に動かしていくために

 

周りの人達に助けを求めたり

 

頼ったりすることが出来たら

 

孤独をずっと感じながら、

 

重たい心を持ったまま

 

ひとりで仕事を抱え込むことはなかったと思います。

 

あなたの周りにいるプライドの高い人

 

あるいは、自分自身がプライドが高い人で

 

いつも孤独を感じながら仕事をしている人

 

ひとりで頑張ったほうが楽だからと思い

 

何でもひとりで頑張っている人がいたら

 

自分よりも仕事が出来なかったり

 

スピードが遅くてもいいから

 

ぜひ周りの人に頼ってみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自ら動くことをやめるとき

最近、

 

政治の話題やスポーツで相次ぐパワハラ問題の報道を見ていて感じることや

 

誰かと話していて、些細なことを感じるとき

 

『今の自分をゆるす』ことが

 

度々、心の中に出てきます。

 

先週、心の整理がつかないことがあり

 

SOSを求めてたとき

 

自責や他責の思いが苦しいときは

 

『自分でやろうとしている』ことに気付く

 

サインが出ているから

 

『自分でやろうとする、ほんの少しの気持ちを、神に預けて、祈ること』

 

教えてくれました

 

『ゆるす』ことや

 

『浄化』というのは

 

『自分でやろうとする、ほんの少しの気持ちを、神に預けて、祈ること』

 

気持ちの中にムクムクと湧き上がる

 

『わたしが何とかしなくてはならない』思いを

 

聖霊に預け、わたし以外の存在にしてもらうこと

 

不安になると

 

頭がグルグルと回り出して

 

身も心も硬くなって、緊張していくから

 

ほんの些細なシグナルや

 

直感のタイミングが見えなくなるから

 

思考で解決に導こうとして

 

外に答えを求めようとして

 

ロジカルな理論に当てはめて

 

数学の問題のように答えを出して

 

解決したかのように装えますが

 

心が既に知っている今の自分の声と

(深い気付きともいいますが)

 

重ならずに葛藤状態を作り出してしまうので

 

別の問題を使って

 

自分の声を聴いてもらおうとします

 

心が既に知っている自分の声は

 

次の場所に行くときに必要な切符のようなもので

 

大抵は抽象的なものです

 

静かにしているとか

 

丁寧に物事を見るとか

 

日常の具体的なことに対処するときの

 

心得やものの見方に関わることが多いです

 

その声を聴こうとするときに

 

後付けで取り込んだ価値観が挟まると

(世の中では、現実的な見方といわれるもの)

 

声を消してしまうことがあります

 

大切なことは、流れていく方へ行くこと

 

具体的なものを挟もうとするときは

 

大抵はズレていって軌道修正が入ります

 

今、霊的な目覚めが早くなってきているのと

 

社会全体の引力がどんどんと軽くなってきている分

 

重たいものは目に見えて重たくなっています

 

心が作り出す毎分毎秒の気持ちの変化は

 

軽くなれば浮かび上がり

 

重くなれば沈んでいきます

 

鬱病を経験する人が増えていたり

 

些細なことで動けなくなる人が多かったりするのも

 

『繊細さ』という豊かな感受性を

 

『自責』という武器に反転させているからです

 

例えば、生まれ持って奉仕精神が強く

 

所属する場所で人のために尽くす思いが

 

与えられた使命を完遂出来ない場所であったり

 

強いこだわりが残っていたりすると

 

最後までやり遂げられなかったりして

 

苦しい思いをして、自分であることが

 

分からなくなってしまう

 

『犠牲』という言葉で語られますが

 

根にあるのは

 

『貢献出来ないことに対する自責の心』であり

 

心は『鏡』になる人を必ず作りますので

 

身近な人との関係が荒れてしまったり

 

大好きな人達が病んでいったりする環境を

 

実は自らが作ってしまっているからです

 

奉仕の心を持つ人は

 

周りの人達を分け隔て無く、

 

心の底から愛している人なのですが

 

自分を愛せなくなって

 

信頼が置けなくなってしまったとき

 

愛しているのに、大切な人達とわだかまりが出来てしまう

 

愛せなくなったがゆえに

 

鬱になって

 

世の中を信じられなくなってしまうのです

 

大切なことは

 

まずはどんな自分も受け入れること

 

ただ

 

受け入れるのは自分でやらなくていい

 

先程書いたように

 

まずは自己否定をしている自分を受け入れ

 

ダメだと嘆いている自分の性格を受け入れ

 

『そんな自分でもいい』とゆるすことです

 

やさしい人達は

 

のんびりしていたり

 

調和を取ろうとしている自分が

 

周りの人達を見渡してみると

 

テストやスポーツで勝つことに夢中になっていて

 

人と差を付けて、

 

『あなたとわたし』が違うことを意識していたり、

 

面倒なことをするのを避けるために

 

無言の心理戦を駆使している姿を見たとき

 

それをしない

 

あるいは、出来ない自分を

 

不器用で損をしている

 

カッコ悪い

 

価値がないとジャッジして

 

自己否定をしがちです

 

そして否定的な考えが出てきたとき

 

苦しくて感じたくないから

 

見て見ぬ振りをしたり

 

なかったことにしたりしがちです

 

ゆるすことの第一歩は、

 

自己否定をしていることを受け入れること

 

そして、神にゆるしをお願いするために祈ることです

 

大事なことは

 

自分でやらないことです

 

必要なことは、望む形ではなくても、必ず与えられます

 

ゆるしが完了したとき

 

奇跡は現れて

 

次のステップの答えをあなたにもたらします

 

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何も言わないやさしさ

僕が、僕自身を信じられなかったとき、

 

ずっと外に答えを求めていた。

 

カウンセラーの立場にある人達に会っては

 

彼らの言葉を使って

 

今、必要なことを教えてもらったり

 

将来の指針になるようなことを言ってもらいたくて

 

たくさん質問をしていた

 

あるとき

 

何も聴かれたことを言わないで

 

しんちゃんはどうしたいの?

 

と聴く人達が立て続けに現れた。

 

僕は答えを知りたかったし

 

行動すらしてないのに

 

一生涯続けられるものを知りたかった

 

聴かれて出てくるのは

 

伝えられなかった思いを伝えることだったり

 

日々やってくる些細なことを受け入れることだったり

 

両親にしても、大切な人達にしても

 

伝えたり、受け入れたりすることで

 

【愛】が流れていること

 

【愛】は、愛されているとか

 

愛しているとか

 

そういうものでなく、

 

言葉や行動のように見える形でなくても

 

ただ【愛】はあることを体感することだった

 

人は劇的なドラマを使って

 

浄化を経験する快感を知っていて

 

様々な人間模様を演じている

 

快感を味わいたいときは

 

【愛】を【恐れ】に反転させて

 

【恐れ】を【愛】にひっくり返す

 

力業を自分の手で成そうとする

 

今、恐れていることや

 

怖いことは

 

あなたがすでに持っているけれど

 

人の前に差し出すことを

 

拒んで

 

あなたではない人になろうとする起爆剤にも

 

なるけれど

 

そろそろ羽織っていたベールを

 

脱いでも安心であり

 

みんながあなたを求めていて

 

生きていることが喜びに変わっていって

 

光になることを

 

あのとき、聴いたことを

 

何も言わなかった人達が

 

プレゼントとして包んでくれた

 

ギフトだった。

 

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