お疲れさま、安心して生きていこう
ただ静かでいること。
音が鳴り響く世界に生きる私たちにとって、意図的に環境を作らないと、静かさからは、隔絶されている感じもします。
今、このブログを書いてるわたしも、
読んでくださる皆様も、
生まれてから、今に至るまで、
多種多様の音が聴こえてくる世界を生きてきました。
テレビを付けたときに流れてくる音。
それは、音声で無くとも、映像を見たときに、けたたましく心の中で鳴り響く音によって、イメージが湧き上がり、あたかも、現実であるかのように思えてしまう。
人が入り乱れているかのようで、音が交差して、ざわついた音になることもあり、不快感を募らせていくこともあります。
人と人とが交わるときも、音と音が交わり、ある時は、クラシック音楽のように、平安を促すこともあり、ラップのように、テンションが上がっていくこともあり、警戒音のように、ドキドキすることもあり、
音として聴こえないものも、あたかも、音があるかのように、生活していますね。
音に囲まれた世界で暮らす我々が、
音の無い世界を体験するとき、
身体はどんな風に感じるでしょうか?
心は、何を感じるでしょうか?
瞑想の時間を取ってみて、聴こえてきたのは、
ソワソワした焦りのような感覚。
その感覚も、ただ在るものと、気がつくと、静かさが奥にあることを見つけて、落ち着いてくること。
静かであることは、音の慣れた世界に住むわたしに取って、最初は脅威であったこと。
脅かされず、攻められず、守られている、静かなことが、逆に脅威で、攻撃的で、防御に入るために、刺激的なものを見つけようと、思考が動き始めること。
何だか、おかしな事ですよね?
エゴは、静けさと、ぶつかってしまい、ノイズを作り出そうと、必死で、外にあるものを探し出します。
エゴである自分、静かでただ安心している自分。
エゴは、外にあるひとつの出来事。
例えば、怒りを持っている相手が、わたしにその感情を出すとき。
わたしは、理不尽に怒られたと思い、憤ります。
憤りを、理不尽な怒りをぶつけた相手のせいにしますが、
実は、憤りは、わたしの中にあったもので、相手は関係がないもの。
ただ、憤りを出してくれたに過ぎない。
(逆に、私が、相手の怒りを出してあげたことでもあります)
静かな感情は、自然な状態であり、『無』であり、『空』であるので、何も描かれていない白いキャンバスなのです。
白いキャンバスに、エゴは、愛を表現出来なかったり、分かってもらえなかったりして、寂しく、そして、相手に腹を立て、黒い点をたくさん、書いていきます。
それが、怒りや不平不満になって、あっという間に白いキャンバスは黒く塗り潰されていきます。
キャンバスは鏡とも言えるでしょう。
相手の白いキャンバスに映る自分のキャンバス。
相手のキャンバスが透明であればあるほど、黒く塗り潰されたキャンバスは、はっきりと映し出されます。
だから、皆さんの中でも、
悪気はないのに、理不尽に怒りを出されてしまう。
理由もなく、自分にだけ、口を聴いてくれない人がいる。
あるいは、きつい言葉をかけられやすい。
(一般的には、舐められやすい)
イジられやすい。
こんな方がいたら、ご安心を。
あなたの、キャンバスは限りなく白いです。
だから、外からの黒い墨が飛んできても、それを白く浄化することが出来ます。
みんな、愛を求めて、ねじれているけれど、表現しているのです。
『Call for love』と呼ばれて、一見すると、非難、攻撃とも取れること。
それも、あなたが、純で、透明であるがゆえです。
本当は、みんな、純で透明なのです。
それでも、ノイズに乱され、疲れて、休みたいからこそ、純なものに、癒しを求めている。
素直に癒しを求めれば、良いのですが、エゴが許してくれず、逆をしてしまう。
相手に求めることも、またエネルギーを使いますね。
だから、今、自分が、目を瞑り、静かにしてみることをお勧めします。
楽な姿勢で、目を瞑り、今まで、頑張ってきたあなた自身に一言でもいいので、労いの言葉を掛けてみてください。
『今まで、お疲れさま。これからは、安心の中で生きていこう』