優しさが与えてくれる贈り物
『優しい』
褒め言葉でもあるこの言葉。
優しさを持って接することや、優しさを忘れずに人と繋がり合うことも、生きていく中で、様々な感情を共に味わうものです。
優しさという言葉は、時に、様々な恐れを隠す道具にしてしまう事もあります。
本音を言うことが、人との繋がりに分断をもたらすものであるという恐れから、相手に優しくしていたこともあれば、
教育的観点で、人に優しさを持って接することを、妥協や中途半端なものにしてしまうと感じている人もいると思います。
私は、ある時期、優しいまま在り続けることは、関わる相手に下に見られ、舐められると思っていた時期がありました。
優しくいることが、自分自身が、不利な立場に置かれて、苦しい思いをすることになると感じていました。
自由に、かつある程度、楽に人間関係を築くためには、ある程度の残酷さや優しさから手を差し伸べる場面でも、見て見ぬ振りも必要と考えていた事もありました。
今、振り返ると、恥ずかしさも覚えますが、
これは、自分の立場を守ろうと必死なあまり、人間本来が自然に持っている優しさを、否定の道具に使っていました。
慈悲という言葉があります。
慈悲は、どうして悲しみが入っているのでしょうか?
これは、あくまでも、私が感じた事ですが、
優しさを発揮する場面を恐れて、鍵を掛けて、優しさを胸の奥に閉まっていた場合、
胸の奥を開ける鍵が、悲しみに触れる出来事なのではないでしょうか?
悲しみを覚え、心に響き、感情に触れたとき、
そこは、凍てつくような寒さを感じているときだと思います。
冬が終わり春が来ると、暖かくなります。
そうした時、私の周りに集まってくる人達の中に、過去の自分と同じ経験をしていたり、似た感情を覚えたとき、
人は、慈しむことを味わっています。
慈悲は、悲しみの分だけ、人を慈しむようになる。
経験したことの大小ではなく、それぞれの経験から引き出された感情の分だけ、慈悲深くなっていく。
過去、自分と同じような経験をしたり、感情を味わっている人が目の前に現れたとき、
手を差し伸べたり、話を聴いてあげたりして、安心感を与えることは、素晴らしいことです。
しかし、手を差し伸べ、丁寧に話を聴いているのは、
同時に自分自身であることも忘れずにいたいです。
経験をして、感情を味わい尽くしたから、おしまいではないのです。
自分事では終わったつもりでも、人生という筒の中には、残り香がまだあって、何かの拍子に匂ってきます。
その匂いがあるからこそ、共感や共鳴が起きるのですが、
同時に、悲しみを喚起させることが起きても、私たちは、こうして生きていて、関わり合う人達がいて、助けられている。
手を差し伸べ、励まし、繋がっていく中で、1人では出来なかったり、過去の自分では辛くて、取りきれなかった悲しみを、相手と寄り添うことで、もう1度、追体験しながら、取らせてもらっている。
優しさを発揮することが、私自身の、人生で経験した寂しさや孤独や、理解されないと思い悲しんでいた過去を、癒し、一皮剥ける光になっていきます。
その光は、人それぞれ、感じ方は異なるかもしれません。
人と繋がることで、愛し、愛されていたことを、それぞれの感覚で受け取りあえる。
それは、正に、世界に存在すると思われた愛が、私たちの心の中にあったものだと感じ合えるものかもしれません。
だから、あなたの優しさを、渡してあげてください。
その優しさが軽やかに、あなたの心の中にある光に変わっていく思いを解き放っていきますよ。