存在そのものがメッセージになる

愛ある思いが、言葉を紡ぎ、人と人とをつないでいく

昭和は遠くになりにけり

投稿でも書きましたが、

 

漫画家のさくらももこさんが亡くなりましたね。

 

f:id:kinpati1625:20180829042908j:image

ちなみに、この顔に出てくる、縦線が好きでした!!

 

 

以前、このブログでも、さくらさん作の『コジコジ』について書きましたが

 


 

さくらさんの作品は、

 

人間の業(エゴ)』を笑い飛ばす爽快感がある反面、

 

ちびまる子ちゃんのナレーションのような

 

『第三者』の視点で見ているところがあったり、

 

『禅の教え』のようなセリフがあったり、

 

f:id:kinpati1625:20180829044759j:image

(花輪くんって、実は、瞑想好きって知ってました⁇)

 

自我』と『』の2つの視点を持っていて

 

その対比が笑いになっているから、面白かった。

 

あとね、『ちびまる子ちゃん』の魅力は、

 

やっぱり圧倒的な昭和感だと思う。

 

f:id:kinpati1625:20180829042206j:image

(西城秀樹山口百恵山本リンダを知ったのが、ちびまる子ちゃんからだった人も多いはず)

 

その時代を生きた人なら当然懐かしいと思い、

 

昭和を知らない平成育ちの人でも、何となく懐かしいと思わせてしまう魅力がありました。

 

マンガは、昭和の終わりの1986年に始まり、

 

アニメは、平成が始まったばかりの1990年に始まりましたが、

 

時代は、バブルの真っ只中で、

 

日本各地が『開発』によって、昭和の原風景がなくなっていったころ。

 

その頃に、ちびまる子ちゃんはブームになり、

 

国民的なアニメになっていった。

 

たぶん、これは日本人が持っていた『共同幻想』が崩れてきたころだと思う。

 

f:id:kinpati1625:20180829042536j:image

 

この『共同幻想』は、具体的にいうと、

 

家族を中心として地域や学校のような誰もが安心して居場所があるコミュニティがあること。

 

『個人』が、他人に干渉されなくても、プライベートでは、思い通りに自由にいられる時代になってきたからこそ、

 

かつてあった、安心して帰れたコミュニティを『ちびまる子ちゃん』に見ていたんだと思う。

 

まる子の家は、おじいちゃんやおばあちゃんと同居しているし、

 

なにせ、おじいちゃんと仲良しですし。

 

f:id:kinpati1625:20180829042808j:image

『友蔵心の俳句』はいい味出してたなー!

 

これは、僕が感じたことだけど、

 

今までのしがらみも含んだ昭和的共同体は、

 

地方都市では今でも残っているところもあるけれど、

 

まず、家族や地域共同体の中で、

 

物質的な豊かさに満たされた、まさに『ちびまる子ちゃん』の時代あたりに崩れ始めて、

 

1980年代から90年代にかけて、

 

今度は『個人』が『消費』をする時代になって、

 

物質的な自由が1人1人に行き尽くしたことで、

 

牧歌的な昭和的共同体が消滅していった。

 

今、個人の『自由』は達成されましたが、

 

同時に『つながり』を感じる瞬間が減ってしまったからこそ、

 

今、経済的な利益を抜きにして、

 

人と人とが集まるコミュニティがインターネットやSNSを通じて、

 

出来てきた。

 

それは、ちびまる子ちゃんの時代には、当たり前にあった昭和的な共同体に、あったものかもしれません。

 

平成が終わる今、今度は、しがらみという『恐れ』ベースのつながりを見つめながら、

 

人と人とが『愛』からつながる共同体作りになってきている。

 

それは、常に一緒にいて、縛られる間柄ではなく、

 

1人1人の個性を受け入れて、違う『音』が重なり合うことで、1つの『音』が発せられる関係性になっていく時期に

 

次の時代はなっていくと思います。

 

さくらももこさんの死は、新しい時代に向かう今、

 

古き良き昭和の時代と新しい技術が世の中を変えた平成の時代の統合が、すぐ近くまで来ていることを教えてくれたような気がします。

 

改めて、ご冥福をお祈りします。

 

ネガティブな感情は、『奇跡』を導くチケット

一時期ですが、

 

『ポジティブ』『ネガティブ』という言葉が

 

席巻したことがありました。

 

常に明るく、前向きな『ポジティブ』

 

後ろ向きで、悩みが尽きない『ネガティブ』

 

今では、日常的な用語として、定着しています。

 

『ポジティブ』の印象は、言うまでもなく、良いイメージがありますが、

 

『ネガティブ』の印象は、

 

暗い、

 

一緒にいて重くなる、

 

生きづらそう

 

という三拍子が揃っていて、

 

『負』のイメージが漂っています。

 

最近、自己啓発本やスピリチュアル関係の本でも、

 

『ネガティブ』な心理も受け入れる方向になってきていますが、

 

基本的に、スタンスとしては、

 

ポジティブな面から書かれることが多いように感じます。

 

以前から、感じていたのですが、

 

 

『ネガティブ』って、遠ざけられるものなのでしょうか?

 

 

基本的には、自分の『陰』の部分は、

 

この地球に生まれて、現代の日本という社会の中で成長していく中で、育まれた

 

価値観が創り出しているもの。

 

それは、言ってみれば、

 

両親や学校の中で、『良い』と教育されたものや一般常識が、

 

反転してしまったもの。

 

例えば、

 

学校を卒業しても、

 

働いていないことが『悪』だと思っていたり、

 

同性が好きであることに『後ろめたさ』を感じたり、

 

社会通念によって、ラベリングされることで、不適応を起こしていること。

 

そんなことが、

 

今、あなたが感じていることに、

 

『意味付け』をして、否定することで、『闇』を見せています。

 

『ネガティブ』なことは、まずは、しっかりと出てきている思いを受け入れることです。

 

そのときは、自分で何とかしようとしなくていい。

 

受け入れたら、『浄化』が始まります。

 

祈り、しかるべき行動が必要な場合は、行動をしながらも

 

ただ待つことで、

 

『奇跡』を体験することで、『思い込み』が消されていきます。

 

なので、ネガティブな感情は、

 

『奇跡』を体験するためのチケットです。

 

もし、祭壇があるとしたら、神様にお供えするフルーツのようなものです。

 

f:id:kinpati1625:20180828221227j:image

 

だから、あなたの中にある『ネガティブ』な感情に気が付いたとき、

 

中には、身体が動かないほど、心が重い人がいても、安心してください。

(もちろん、履いてますがw)

 

あなたのネガティブな感情こそが、

 

もっと言えば、悩んでいることこそが、

 

祈りになるのです。

 

運ばれてくるものは、私たちには分かりません。

 

分かったら、

 

それは、魔術という名のコントロール(意図)になるからです。

 

魔術はいつか消えてしまいます。

 

なぜなら、形のない幻想だからです。

 

ネガティブな感情を使ってくれる神様は、

 

今の私たちにもっとも必要なものを与えてくれます。

 

それが『奇跡』であり、そういうものを受け取り続けていくことが、

 

『奇跡』を生き、創造が始まっていきます。

 

 

創造は『自分』から始まる

僕は、野球が好きで、よくプロ野球で監督をしていた人達の本や読みます。

 

その中で、『野球』も含めて、

 

『物事を見る眼』が

 

すごいなと思っていたのは、

 

中日ドラゴンズ落合博満監督。

 

現役時代は、三冠王を3回取る大打者で、

三冠王とは、本塁打王打点王首位打者の打者が取れるタイトルを独占することです)

 

f:id:kinpati1625:20180823003552j:image

 

f:id:kinpati1625:20180823004056j:image

(神主さんがお祓いをするようなスタイルから、『神主打法』と呼ばれました。)

 

中日ドラゴンズの監督に就任すると、

 

8年間で、リーグ優勝5回、日本一1回、

 

そして在任期間中の全てAクラスという名監督でした。

 

現役、監督時代を通して、

 

独特の練習法、采配、マスコミの対応が

 

『オレ流』と呼ばれるほど、

 

変わっているのですが、

 

f:id:kinpati1625:20180823003617j:image

(日本シリーズで、走者を1人も出さない完全試合していた投手を、9回に代えたのも、話題になりました。)

 

 

落合さんの出現は、プロ野球選手の意識を大きく変えました。

 

(一番は、球団の言いなりに近かったプロ野球選手の査定に異議を唱え、プロ野球選手の年俸を大幅に上げたことです。)

 

2ヶ月ほど前、

 

関西のスポーツ番組にゲストで出た落合さん。

 

吉本の野球好きのお笑い芸人の質問に答えていくスタイルの番組で、

 

出演者の中で、1人だけ野球をほとんど知らないお笑いの人が、

 

落合さんの現役時代の独特の練習法を聴いて、

 

『なんで、他の選手は落合さんと同じように練習せえへんの?』

 

と聴きました。

 

他の出演者からは、

 

『落合さんは、天才だからに決まってるだろ』

 

と総ツッコミされて、別の話題になりました。

 

その後、指導者の選手への教え方について、

 

『経験を積んだ選手になると、聴いてもないのにうるさく教えたって、選手の心には響かないし、うるさいと思って聴かないんだよ』

 

と言い、

 

落合さんが、前に質問してくれたお笑いの人に

 

『さっき、野球知らないから、素直に聴いてくれたでしょ。素直に聴いてくれるのに、その意見をみんなで潰そうとしたでしょ。それしちゃ、ダメなんだよ。同じように、選手が、素直に聴いているときに、教えてやるんだよ

 

と言いました。

 

落合さんの話を聴いて、

 

ある分野において、『知識』があり、実践もしている場合は、

 

教える側が『自分から』教えるのではなく、

 

素朴に疑問を感じて、聴いていることに、答える。

 

そして、相手が聴いているときは、

 

物事を『吸収』する力が開いているときなので、そういう時に、『教える』のです。

 

僕も、教えることは、言われたことを吸収していくものだと、つい2年ほど前に、思っていました。

 

思っていたとすら気付かず、無意識にそう思っていました。

 

考えてみたら、小さい頃から、

 

両親や先生、部活の指導者、アルバイト先の先輩、職場の上司、先輩などが、

 

自分たちの教えを一方的に教えて、『教えられる側』のわたしが吸収していく。

 

そして、同じことを、後から入ってきた人達に、教えていく。

 

いわば、『教える』ことは、すでに始まっているバスケットボールの試合に入れられて、『パス』を繋いでいくものだと、思っていました。

 

落合さんは、プロに入って間もない頃、

 

当時の監督が打ち方を教えようとしたら、

 

『僕のやり方でやらせて下さい。3年で結果出なかったら、クビにして構わないので』

 

と言い、

 

自分の身体に合いそうな打ち方をしている

 

同じチームの選手を見つけて、

 

彼のフォームを『モデル』にして、

 

自分の身体に合った打撃スタイルを確立して、

 

三冠王を3回取り、45歳まで活躍する名選手になりました。

 

落合さんは、練習を指導者の『言われた通り』にやるのではなく、『自分から』吸収しにいったからこそ、成功しました。

 

50歳近くまで現役を続けた工藤公康投手も、

 

f:id:kinpati1625:20180823003730j:image

 

若手の頃は、指導者の教えを鵜呑みにせず、時に、その教えは流していたそうです。

 

2人とも、指導者からしたら、

 

生意気極まりないですが、(笑)

 

1人1人、向き不向きも違うし、

 

なにせ、指導者は、どうしても自分の『型』にはめて、選手を指導しがちです。

 

それなのに、プロ野球の世界で長く成功する選手は、

 

指導者の『型』にはまらず、自分の『型』を持っている選手ばかりです。

 

野球に限らず、どの分野でも、そういう人たちが、結果を出しています。

 

教育、指導法などは、

 

1人1人の『個性』を引き出すものですが、

 

合わないものは、合いません。

 

良かれと思って、言われたことをやってみても

 

その人に合わないことは、

 

たっくさん

 

あります。

 

僕も、部活、受験、仕事のスタイル、学んだ心理学メゾットなどで、

 

合わないものが、

 

いっぱいありました。

 

素直に言われたことをやってみるのは、

 

とても大切なことですが、

 

合わなければ、離れることも

 

経験から学びました。

 

そして、今、強く感じるのは、

 

昔の僕のように、

 

誰かの成功体験を基にした理論やメゾットを、そのまま当てはめて、同じような結果を出そうとすると、

 

自分の『本質』からズレてしまいます。

 

そういうやり方は、もう時代に合わなくなっていることです。

 

今は、自分の在り方を思い出して、素直に表現していく時代。

 

人と関わる中で出てくる自分の在り方に気が付き、それぞれが大切にしているものを思い出す時代に入りました。

 

誰かの生き方や、やり方を模倣することは、

 

自分を知る上では、最初は必要なことですが、

 

それは、あなたが、あなたという『人となり』を知る手掛かりになるものです。

 

あなたが、

 

否定している恥ずかしいところ、

 

欠けていると思っているところ、

 

自信が持てないところが、

 

裏を返せば、

 

人と繋がる素晴らしい才能であったり、実はコミュニティの中でバランスを取り、調和をもたらしているものかもしれない。

 

だから、そんな自分でもゆるされていることを

 

素直に認めるところから始まります。

 

そのことを否定したままだと、

 

『別の誰か』になろうとしてしまうので、

 

『言葉』と『在り方』が伴わなくなっていて、

 

自分が苦しくなるか、

 

自分を取り巻く現実が荒れ始めたり、

 

身近な人の心身が不調になったりします。

 

今、色々な言葉が飛び交っています。

 

自分の思いを素直に伝える人達がたくさん出てきていて、『愛』『在り方』『本音』という言葉が、至る所で飛び交っています。

 

しかし、本当は、言葉ではなく、

 

写真に載っている人達の『顔の表情』が、その人の『今』を伝えています。

 

もっと言えば、言葉ではなく、

 

その場から

 

伝わってくるエネルギーが真実を伝えている。

 

そういうエネルギーは、

 

穏やかだけれど、時に力強く、不思議な安心感を与えてくれるものです。

 

まずは、『自分』から。

 

見ているもの、見えてくるものから

 

心を整えて、

 

お互いに、自然に気付き合い、

 

それぞれが自分の本質を受け取ることから、始まります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

敏感すぎる人たちが幸せに生きるために

突然ですが、

 

皆さんは、自分の性格やタイプは好きですか⁇

 

以前、お会いした人で、自己紹介の終わりに

 

『わたし、性格悪いので』

 

とポロっと言った人がいました。

 

そのとき、フラッシュバックしたのは、

 

高校生の頃に、イライラする度に、

 

意地悪な言動をしてしまうクラスメートが、

 

いつも言っていた言葉でした。

 

からしたら、

 

意地悪な言動を投げ掛けてしまう繊細なクラスメートの光に照らされて、隠していた心の闇にスポットライトが当たったと思い込み、

 

『防御』のつもりで、

 

つい言ってしまっていたんだと、

 

今なら、思います。

 

または、

 

感受性が豊かなために、他の人が感じない微細なことまで気付いてしまい、

 

中には、人をコントロールしようとする想いや

 

『攻撃』を予感させる予兆などを感じ取ってしまい、他の人が感知しないことまで受け取れる

 

本来ならば、愛ゆえの素晴らしい才能なのを、

 

相手の『恐れ』も一緒に感知してしまうがゆえの

 

必死の防御の一言だったのかもしれません。

 

人の感情の機微を読み取れることは、素晴らしいことだけど、

 

神から与えられた素晴らしい才能を

 

受け取らない選択をして、否定をしてしまうと

 

『兄弟』という名で現れる他人の中にある

 

透明な鏡の中に、とても重たい『恐れ』のエネルギーが映ってしまうので

 

神の愛を受け取らないあなたと同じように、

 

与えられたものを認めないために、

 

自分を愛することが出来ず、自己否定が止まない『恐れ』のエネルギーを出す人と

 

たくさん出会うことがあります。

 

『攻撃』をする人と『防御』をする人。

 

凸と凹が合い、『恐れ』のパズルがハマっているときは、

 

『恐れ』が、『攻撃』に出やすい人は、

 

愛する人が、攻撃の対象になり、否定、非難が止まずに、パワーハラスメントモラルハラスメントになってしまったりします。

 

『防御』に出やすい人は、

 

他人と線を引き、心を閉じてしまうため、人付き合いで、腰が引けてしまい、

 

孤独感を感じやすく、人との繋がりが感じにくく、

 

心を許せる特定の人に依存をしてしまったりします。

 

長々と書きましたが、

 

『攻撃』と『防御』の両方に出やすい、

 

人の感情を自然と読み取れる敏感な人達。

 

まだ言語化されていない相手の思いが分かってしまうあまりに

 

元気に振る舞う相手の奥にある癒されていない深いかなしみや

 

快活な言動に聴こえるけれど、

 

本人の『自己否定』が隠されていて、その重たさをダイレクトに受け取り、鬱のように落ち込んでしまう。

 

そういう相手の気持ちを微細に受け取り、共感する人のことを、

 

エンパス(共感能力が高い人)と言い、

 

最近では、

 

HSP

(High Sensitive Person)

 

『敏感すぎる人たち』

 

という言葉でも知られています。

 

最近、書店に行くと、HSPの人向けの本が、かなり出ています。

 

重たいエネルギーを受けないために、『境界線』を引いて、結界やバリアを張ることが書かれていて、

 

僕も6年前に、

 

初めてHSPの本を手に取ったとき、衝撃を受けて、ものすごく画期的な発見であり、

 

いつも人付き合いで、疲れ切ってしまう僕も、これで救われると思っていましたが、

 

自分と他人の区別を意識して、『境界線』を引くことで、

 

今度は何も感じなくなり、自分が何を感じているのかも、分からなくなりました。

 

自分の心を見なくなってから、対人関係で自分を責める人が身近に現れ始めて、

 

行き詰まってしまいました。

 

そんな中で、奇跡のコースを学び、『投影』のメカニズムを知り、

 

自分自身との関係性が、そのまま相手との関係性を創り出していたこと。

 

つまり、『外』で相手がわたしにしていると思っていることは、

 

神から与えられたものを受け取らず、他人に合わせることで、出来ない自分を否定し続けることで、

 

自分の心を見ないままにしているものを、気になる相手を通して見せてもらっているだけに過ぎないことだった。

 

そして、『陰』に受け取っていた

 

相手の思惑、闇、恐れに怯えていたのは、

 

本当は幻想だけれど、

 

まだ『恐れ』が実在すると信じていて、そのエネルギーで、同じエネルギーを持つ人達が鏡になって見せているに過ぎなかった。

 

だから、まずは、

 

怯えている『相手』に見ている『恐れ』がわたしが作り出したものだったと受け入れることです。

 

HSPで書かれている『境界線』を引いてしまうと、

 

自分と相手を分離させてしまうので、

 

『別の存在』であると知覚してしまい、

 

浄化が終わらず、自分が創り出した『恐れ』のドラマから抜け出せません。

 

そのため、人は入れ替わっても、同じように気になる人が出続けることになります。

 

HSPを形にしたのは、実に画期的なのですが、

 

まだ自分が『弱い存在』であるために、

 

攻撃を受けやすいので、防御しなくてはならない

 

という見方をしているので、与えられた共感能力の高さを否定しているために、

 

自己否定から抜け出せていません。

 

自分が『周りから見て弱い存在』だという見方から抜け出し、

 

与えられた共感能力を生かして、

 

どんな対象に関わらず、愛せるようになるには、

 

『浄化』が必要です。

 

そのためには、

 

HSPの『弱み』だと思われている

 

自分と相手の間の境界線を引かない、いわゆる、人は全てがひとつである見方を使い、

 

相手を『鏡』として見て、自分自身が怯えているものが映し出されたときに、その恐れを祈りによって、委ねて、消してもらうことです。

 

消すのは、自分ではやらずに

 

神です。

(大いなる存在でも、天でも、ご先祖様でも、信じているもので構いません)

 

つまり、神様に祈り、訂正してもらう。

 

最初はやや荒療治です。

 

『投影』に意識が向くので、気になってしまう相手がどうしても怯えているものを見させるために、

 

気になる行動、言動として目につくようになります。

 

それでも、出てきたら、何回も何回も祈ることです。

 

そして、祈ったら、自分で気持ちをいじろうとしないで、ひたすら待つことです。

 

相手を通して気になったらとにかく祈ります。

 

僕も、2年程前は、エンパスであることを受け入れられませんでしたが、

 

浄化を促すように、人や場所を変え、何度も同じようなことが気になることが続いたので、

 

降参して、何回も何回も祈りました。

 

今でも、たまに、心が重くなることがありますが、

 

相手を通して気になることが、少しずつ、少しずつ無くなっていきました。

 

それは、共感能力の高さを使って、文章を書く喜びに変わったり、

 

人と関わることが急に楽しくなったりして、

 

不必要な『遠慮』が無くなり、気持ちが楽になりました。

 

本来、共感性が高いエンパスは、人と関わる喜びをたくさん知っていて、

 

気になることが減っていくと同時に、

 

『愛』の領域が広がっていくので、

 

相手の喜びも共に味わえるようになります。

 

そして、苦手だった人との関わりが

 

本当は大好きで、

 

『愛されていたこと』を知り、

 

関わる人達を愛せることが、自分を愛することであり、

 

境界線の無い共感能力の高さが

 

自然と神と繋がっていくので、

 

人と関わるときには、

 

思いもよらない奇跡を体験したり、

 

創造が始まって広がっていきます。

 

f:id:kinpati1625:20180819004307j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常識を疑え

親戚の叔父が持ってきてくれた本の中に埋もれていて、

 

手に取り、

 

ふと読み切ってしまった

 

NHKアナウンサー有働由美子さんの『ウドウロク』

 

f:id:kinpati1625:20180817203532j:image

有働さんと言えば、

 

あさイチ』や『紅白歌合戦』の司会をしていたのと、

 

NHKのアナウンサーにしては、

 

どんな人にも、物怖じしないで、

 

自分の意見をはっきり言う人という印象だったけれど、

 

『ウドウロク』の中で、かなり印象的なエッセイがありました。

 

それは、有働さんがNHKに入局してすぐのこと。

 

記者として、『社会の中で恵まれない人』をテーマに取材をしていて、

 

紹介されたある施設で、両親が覚醒剤に手を染め、おまけに親から自分も覚醒剤を打たれていた高校生の少女を取材していたとき、

 

有働さんとその子が、歳が近いこともあり、打ち解けて、いろんな話をするようになったそうです。

 

その子は、当時、売春をしていて、

 

話を聞きながら、有働さんもお姉さんのような気持ちになっていたそうで、

 

別れ際に

 

有働さんは、その子に、

 

『売春はやめた方がええで』と告げると、

 

その子から、『なんで?』と聞かれ、

 

『なんでって、売春はあかんやろ』と言うと、

 

『だって、私、お母さんにお金送らなあかんもん。お母さんかわいそうやん。お姉さんは大学とかも出てるからええけど、私なんかアルバイトするにも施設の人が頭下げて頼み込んでやっとさせてもらえるねん。なんで売春して、お金稼いだらあかんの』

                   

と言われたそうです。

 

 

そのとき、有働さんは、

 

『売春はいけない』と信じてきたけれど、それは、親が言ったから、みんながそう思っているから、そんな理由で信じていて、

 

そして、信じていたことが、正しいことだと、何の疑いもなく、他人にも同意を求めていたことに、気が付いたそうです。

 

売春がいいか、悪いかは、

 

ここでは置いておいて、

 

よく僕たちがやりがちなのは、

 

自分が正しいと思って、

 

相談すら受けていないのに、

 

自分の目線だけで、

 

アドバイスをしてしまうこと。

 

こういうことは、相手からしてみたら、ただのお節介だと感じることが、多々あります。

(反対のケースを考えると、もっと分かりやすいかも)

 

その人の生い立ちとか、

 

置かれている立場とか、

 

大切にしている価値観とか、

 

ついついすっ飛ばして、

 

良かれと思ってアドバイスしたり、

 

自分が正しいと思って諭すことも、

 

相手にとっては、余計なお世話だと感じることは多いと思います。

 

別のケースだと、自分の成功体験も、

 

あくまで『自分の』成功体験であって、

 

そのやり方が、他の人にも通用するかは、分からないです。

 

相談に乗るのが好きな人や

 

お説教が好きな人ほど、

 

結構見落としていて、

 

実は自分の思い込みを

(ドラマとも言いますが)

 

問題を見ている相手に『投影』していることが多いです。

 

とりわけ、スピリチュアルなど霊的な視野を通して、『心』のことを学んでいる人が、

 

混同しがちなのが、

 

 人間は『ひとつ』であるという概念。

 

しかし、今、私たちがいるのは、『肉体』を持って生まれた人間界。

 

『分離』が当たり前で、表現も様々で、価値観も違うもの同士が生きている世界。

 

ものを見る際に、フィルター(知覚)が掛かっているので、

 

概して、人は、自分のことしか見えず、相手の状況までは見えていないことが多いです。

(僕も、ものすごく気をつけているところですが……)

 

だから、まずは、相手を通して、自分が見えていることや恐れを感じたこと、ジャッジしていることに注意を払って、

 

問題を見ているのは、

 

『自分である』という視点に気が付くこと。

 

そして、問題の中身を出来たら誰かにシェアすることで、

 

思い込み(知覚)を相手に指摘してもらうことで、訂正すること。

 

そして、相手の立場に立つことや心を重ねることを心掛けること。

 

そのようなことが、独りよがりになりがちな自分自身が、人とつながり合うことでもあり、

 

当たり前に信じていたことの正反対のことがあり、

 

『形』(売春をしているとか)だけを見て、

 

良いか、悪いかを判断(ジャッジ)している世界から

 

段々と抜けていくことになります。

 

話を戻すと、結局、有働さんがその子に取材したことは、NHKには提案出来なかったそうです。

 

そして、しばらく言葉が出てこなくなるほど、怖くなったけれど、

 

言葉を使い、人に伝えることということは、そういうことだと、教えられたと

 

言っていました。

 

これは有名無名に限らずだけど、

 

自分の意見を言葉にすることって、もしかしたら、ある人の人生を変えるぐらいの影響力があるかもしれない。

 

SNSが普及して、手軽に言葉を伝えられる時代だからこそ、

 

今は、色んな言葉が出回っていて、

 

何の裏付けもないことでも、言葉のインパクトの強さや勢いに押されて、

 

良いものだと信じたり、

 

自分の頭で考えることなく、

 

正しいと思うものに当てはめることで、

 

自分だけでなく、相手を裁いてしまうときがあります。

 

自分がよいものを人に勧めることは、自然なことだけど、

 

まずは、相手の存在を尊重して、

 

話をよく聴き、

 

相手の心に思いに馳せること。

 

そして、問題と見ている自分自身の視点に気が付き、

 

まずは、問題として現れている『形』の奥にあるものを、自分がまずは受け取り、

 

相手の真の思いを先に受け取り、感謝をすることだと、思います。

 

 

 

 

 

 

ただ流れていくこと

昨日、長野県・佐久穂町にある乙女の滝に行ってきました。

 

f:id:kinpati1625:20180814152427j:image

滝に向かう途中にある清流

 

f:id:kinpati1625:20180814152513j:image

水は冷たく、サラサラでした

 

f:id:kinpati1625:20180814152657j:image

視界にぴったり入るサイズの乙女の滝

 

f:id:kinpati1625:20180814152936j:image f:id:kinpati1625:20180814155218j:imagef:id:kinpati1625:20180814155238j:image

近くまで行くと、滝が凄まじい音を立てて、流れていました。

 

いつもお世話になっている、

 

トレーニングサロン『Tune』の

 

『ひふみの旅』で各地の滝に連れて行ってもらったときも、

 

kinpati1625.hatenablog.com

 

 

滝を落ちていく水は、流れていき、一瞬一瞬変化しているのに、

 

風景自体は変化せず、

 

何も変わってないように見えていました。

 

滝に限らず、水は日常生活の中で、あまりに身近なために、

 

今まで、意識すらしていませんでした。

 

水は、無色で、形がないようでいて、容器に入れると、その形になってしまう、地球ではお目にかからなち、珍しい存在です。

 

そして、何よりも、

 

『水』と『心』は、似ている。

 

滝を巡り、散歩して近くの荒川の水流を見るたびに、思います。

 

大嵐のあとに、水は色を変え、ときに、激流になって、息が上がるように、流れが速くなります。

 

そして、水は、ある場所に留まる事も出来れば、

 

流れていくことも出来ます。

 

留まって、循環しないままの水は、やがて発酵して、淀んでいきます。

 

川や滝のように流れていくと、水の色は変わらずとも、新しくなって、清浄な空気に包んでくれます。

 

よく、揉め事や過去のゆるせない出来事を、ゆるすことを

 

『水に流す』って言うけれど、

 

昔の人達は、水と人間の感情を重ね合わせて、

 

喩えていたんだなって、思う。

 

人は、起きる出来事を見るとき、

 

心の眼を通して見ているから、

 

起きたことを判断して、

 

それに伴って、感情が出てくる。

 

感情って、教育や両親の価値観、

 

その人が育つ中で経験したこと、

 

あるいは、前世で強烈に経験したことを、訂正できないままになっていること、

 

などなど…………

 

その人の経験、感性によって出来た

 

ものの見方によって、

 

感情って出てくる。

 

過去の成功体験も、失敗体験、

 

もっと具体的に言えば、

 

大切に扱われなかったり、仲間外れにされたり、疎外感を味わったりするような経験とか、

 

小さい頃、自分が良いと思っても、周りの大人に強く怒られた経験を

 

まだ自分の中で引きずっていて、

 

『今』を作り出している。

 

そうすると、時間が止まってしまっていて、

 

例えば、12歳から進んでいない時を刻んでいない針が動かないから、

 

起きることは変化しても、中身の感じることは、変化しないことがある。

 

『いつも同じこと』を感じるのは、

 

過去の水に流せていないことがあるから。

 

滝の流れを見ると、

 

同じ場所に執着せず、速いから、

 

周りの空気が澄んでいて、来る人の心をクリアにしてくれる。

 

人に当てはめてみると、

 

流せる人とは、ゆるせる人。

 

ゆるせる人も、『許す』と同時に『赦す』

 

浄化も水によって祓われることがあるように、

 

その人すら、僕の一部であり、心の眼を訂正するために、現れている。

 

流すこととは、本当は、自分が握っているコントローラーを離して、自然に、起きるままにしておくことです。

 

水が見せてくれるように、ただ流れていくままにしておく。

 

そして、出てくるものを受け入れる。

 

水と心は、同じものであり、

 

水を通して、生きるヒントを与えられたと、今、思います。

 

 

 

 

 

ブログを書いていて思うこと

このブログも中断を挟みつつも、

 

1年続けることが出来ました。

 

初めのうちは、

 

『毎日、更新しなくちゃ』

 

『分かりやすく伝えなくちゃ』

 

『読者を増やさなくちゃ』

 

というように、

 

〇〇しなくては、人に読んでもらえないというふうに、自分を勝手に苦しめるような方向に持っていっていました。

 

せっかく書くなら、感覚的で、読んでくれる人には、伝わりにくい文章は書きたくなかったし、根拠を明確に示して、

 

誰にでも伝わる文章を書こうと思っていました。

 

しかし、ブログを書いていくうちに、

 

初めに書こうとしていたテーマが、書いていくうちに、

 

方向性が変わって、言葉がパズルのピースのようにハマっていき、考えてもみなかった文章が書けるときが結構ありました。

 

そういう文章を書ける経験をするのは、書き手にとっては、本当に衝撃的でもあり、嬉しいことでもあります。

 

文章を書くのも、地道なことで、たくさん書くこと。

 

そして、楽しむこと。

 

さらにいえば、

 

読んでくれる人がたった1人でも、

 

その1人のために、書き続けること。

 

僕も、たくさんの人に読んでほしかったり、

 

facebookに投稿したブログが、『いいね』が付かないと、凹んだりします。

 

それでも、書いていくうちに、今のわたしと似ている状況にある人や、

 

感じていることが重なる人達が現れてきました。

 

だから、これからブログを書き始めたい人。

 

ブログを書いているけれど、続かない。

 

facebookに上げても、『いいね』が全然つかないから、読んでくれているかどうかすら、分からない。

 

そんなことを感じている方がいたら、

 

まずは、あなたが感じていることを、素直に書けばいいと思います。

 

そうやって、同じ思いを共有してくれる人がいれば、自分の感じていることを、その人に向けて与えていけばいいです。

 

僕は、これからも、1人でも読んでくれる人に向けて、書いていきます。

 

f:id:kinpati1625:20180814115642j:image