存在そのものがメッセージになる

愛ある思いが、言葉を紡ぎ、人と人とをつないでいく

自ずと気付ける幸せ

先日、清掃を一緒にした代表の方に思い切って聞いてみたことがあった。

 

『どうして、今まで、あれこれ言わずに僕のやり方で、清掃を任せてくれたんですか?』

 

すると、代表の方は

 

『それは、僕は立場的に、晋太朗さんをコントロールすることは出来るんですけど、それをすると、僕の価値観の中に、晋太朗さんを引き入れてしまうことになることになるから、余程のことがない限り、何も言わなかったんです。』

 

さらに、

 

『コントロールすると、晋太朗さんの意識が『外』に向いてしまう。そうすると、晋太朗さんが、自分から気付く機会を奪ってしまうから、あえて、何も言わなかったんです。』

 

と答えてくれました。

 

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感動しました。

 

と同時に

 

衝撃的でした。

 

両親、教師、上司、先輩、コーチ、メンターと言った『教える側』の立場の人達が

 

『学ぶ側』の人の『クセ』や『直すべき点』を教えることはものすごく簡単なことで

 

熱意があったり、何とかしてあげたいと思っている人ほど、熱心に言葉を尽くして教えるだろう。

 

そして『学ぶ側』の中でも、

 

特に素直な人だと、『言われたこと』を一生懸命吸収しようとするだろう。

 

でも、

 

素直で真面目な人であればあるほど

 

言われたことに『囚われてしまう』

 

囚われると『教師』の価値観の中で『世界』を見てしまい、

 

知らず知らずのうちに『教師』に『コントロール』されることになり、『学ぶ側』の人達が自分から気付くこと機会が奪われていく。

 

勉強やスポーツと言った『専門知識』や『技術』を要するものであれば、教え込む時も必要だと思う。

 

だけど

 

個人の『生き方』に関わること。

 

とりわけ、今なら自己啓発や心理学、スピリチュアルの分野においては、

 

『教える→教わる』という関係性だけでは、『自分自身の輪郭』が見えないことが多い。

 

むしろ、『教師』が作っている『枠組』の中から一旦出ないと、扱われている『知識』や『コンテンツ』の中身を腑に落とすことは出来ないこともある。

 

これは、僕が26歳で会社員を辞めて、4年間、ほぼ仕事をしないで、『学び』に費やして学んだことだった。

 

本当の『学び』は『理論』の中にではなく

 

実生活の中での『体験』の中に隠されていた。

 

人と交わったり、清掃の仕事をする中でした失敗だったり・・・

 

『クセ』や『繰り返している』ことが浮き彫りになり、自分で気付けるようになっていくと

 

少しずつだけど、清掃の仕事で今まで見えなかったことが見えてくるようになった。

 

そうやって慣れていくうちに、気持ちが楽になり、人前でよく笑うようになった。

 

自ずと気付きが内面から溢れたときは、『ハッ』とするし、

 

時に、嬉しさに浸ることもある。

 

その時に感じるのは、ずっと探していた宝物を見つけた思いだ。

 

これからの人生も『気付き』と共にずっとあると思うけど、

 

まずは、自分から『気付く機会』と『場』を惜しみなく与えてくれた清掃の代表の方に感謝の思いを込めて!

 

ありがとうございます。

 

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明治神宮で偶然撮れた『宝珠』のような光!)