存在そのものがメッセージになる

愛ある思いが、言葉を紡ぎ、人と人とをつないでいく

ただ流れていくこと

昨日、長野県・佐久穂町にある乙女の滝に行ってきました。

 

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滝に向かう途中にある清流

 

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水は冷たく、サラサラでした

 

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視界にぴったり入るサイズの乙女の滝

 

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近くまで行くと、滝が凄まじい音を立てて、流れていました。

 

いつもお世話になっている、

 

トレーニングサロン『Tune』の

 

『ひふみの旅』で各地の滝に連れて行ってもらったときも、

 

kinpati1625.hatenablog.com

 

 

滝を落ちていく水は、流れていき、一瞬一瞬変化しているのに、

 

風景自体は変化せず、

 

何も変わってないように見えていました。

 

滝に限らず、水は日常生活の中で、あまりに身近なために、

 

今まで、意識すらしていませんでした。

 

水は、無色で、形がないようでいて、容器に入れると、その形になってしまう、地球ではお目にかからなち、珍しい存在です。

 

そして、何よりも、

 

『水』と『心』は、似ている。

 

滝を巡り、散歩して近くの荒川の水流を見るたびに、思います。

 

大嵐のあとに、水は色を変え、ときに、激流になって、息が上がるように、流れが速くなります。

 

そして、水は、ある場所に留まる事も出来れば、

 

流れていくことも出来ます。

 

留まって、循環しないままの水は、やがて発酵して、淀んでいきます。

 

川や滝のように流れていくと、水の色は変わらずとも、新しくなって、清浄な空気に包んでくれます。

 

よく、揉め事や過去のゆるせない出来事を、ゆるすことを

 

『水に流す』って言うけれど、

 

昔の人達は、水と人間の感情を重ね合わせて、

 

喩えていたんだなって、思う。

 

人は、起きる出来事を見るとき、

 

心の眼を通して見ているから、

 

起きたことを判断して、

 

それに伴って、感情が出てくる。

 

感情って、教育や両親の価値観、

 

その人が育つ中で経験したこと、

 

あるいは、前世で強烈に経験したことを、訂正できないままになっていること、

 

などなど…………

 

その人の経験、感性によって出来た

 

ものの見方によって、

 

感情って出てくる。

 

過去の成功体験も、失敗体験、

 

もっと具体的に言えば、

 

大切に扱われなかったり、仲間外れにされたり、疎外感を味わったりするような経験とか、

 

小さい頃、自分が良いと思っても、周りの大人に強く怒られた経験を

 

まだ自分の中で引きずっていて、

 

『今』を作り出している。

 

そうすると、時間が止まってしまっていて、

 

例えば、12歳から進んでいない時を刻んでいない針が動かないから、

 

起きることは変化しても、中身の感じることは、変化しないことがある。

 

『いつも同じこと』を感じるのは、

 

過去の水に流せていないことがあるから。

 

滝の流れを見ると、

 

同じ場所に執着せず、速いから、

 

周りの空気が澄んでいて、来る人の心をクリアにしてくれる。

 

人に当てはめてみると、

 

流せる人とは、ゆるせる人。

 

ゆるせる人も、『許す』と同時に『赦す』

 

浄化も水によって祓われることがあるように、

 

その人すら、僕の一部であり、心の眼を訂正するために、現れている。

 

流すこととは、本当は、自分が握っているコントローラーを離して、自然に、起きるままにしておくことです。

 

水が見せてくれるように、ただ流れていくままにしておく。

 

そして、出てくるものを受け入れる。

 

水と心は、同じものであり、

 

水を通して、生きるヒントを与えられたと、今、思います。