特別性の贈り物 PART2
前回の続きです。
『この人』と思った人の下で学び、一旦、自分の思いを置いて、やってみる。
やりながら、あるときに、『特別性』を抱いていたことに、気付き、
自分が、『特別性』を抱いていた相手と比較して、『まだまだ足りない』と思っていたことを、受け止めること。
『まだまだ足りない』と気付くとき、
実は、相手のスキルや能力といった『形』を見ていて、
自分には、ないものを求めていたことを知る。
そして、相手に追いつこうとして、スキルを伸ばしていても、
相手の基準を気にして、自分はまだまだ足りないと思い、
足りないものを『獲得』しようとする。
憧れの人に出会い、
同じ生き方を志そうとするとき、
『私は、まだまだあの人のようになれない』
と、欠けているところが目に付くことがあります。
僕も、長い間、そうやって人を見ていて、
随分と自責をしてきました。
ときに、
『成長』という言葉が持つ魔力が、
『もっとやらなくては』という意識を駆り立てて、
満足が出来ずに、高みを目指そうとしていました。
小さい頃は、両親や教師、周りの人達から、
褒められたくて、言われたことが出来るように、頑張ります。
そして、出来たら褒められることで、
出来たら=認めてくれる。
出来ない=認められない。
という図式が、身体を通して覚え、
出来ないものを出来るようにする。
分からないことが分かるようになる。
ことが、
『成長』だと信じていました。
だから、
欠けていたものが平らになる=成長
だと信じているからこそ、
学校にいる間の、試験や受験のように、個人の目標達成の為に、頑張り、成果を上げていくやり方が、
社会に出て、個人だけではなく、周りの人との協調、歩調を合わせていくやり方の中で、
様々な考え、性格、能力がある人々と出会い、
一筋縄では行かないことを経験して、
不平不満が募り、ときに、理不尽さを感じてしまうことがある。
そんなときに、
前と同じく、出来ない自分(あるいは、相手)が出来るようになるように、努力する(させる)
そして、出来るようになったとき、成長したと思い、また次の高みを目指す。
この欠けているところを平らにする発想って、
今、限界が来ているように思います。
僕が、子どものころは、まだ言葉すらなかった
『発達障害』っていう言葉。
教育の現場ですら、枠にはまらない子どもが出てきている。
全体に馴染まず、欠けているって見るか、
ユニークな子どもとして、突出したところを見て、伸ばすかで、
見方は変わりますよね。
全体の中で、基準を作って、大小を見ているときに、
『特別性』って生じます。
突出して出来る誰かに抱く『特別性』
それに比べて、出来ない私を見る『特別性』を
コンプレックスや自己否定、損得を見る代わりに、
憧れの人や気になる人に見るのです。
まずは、コンプレックス、自己否定、損得を丁寧に見て見ましょう。
欠けていて、足りないと思う自分を受け入れて、そんな自分だからこそ、祈り、天に使ってもらいましょう。
コツは、自分でやらないことです。
ただ、欠けていて、足りないと思う自分を、ゆるしてもらうように祈る。
ギフトは必ず届きます。
ただ、そのギフトはあなたが考えているものではなく、想定外だと思うところからやってきます。
それは、あなたがずっと対立している人のある言葉から気付くことかもしれません。
あるいは、テレビで流れてくる芸能人の些細な一言かもしれません。
電車の中吊り広告の一文かもしれません。
どんな形においても、ギフトを受け取ったとき、
奇跡を同時に受け取ります。
『特別性』が自己否定から端を発していても、
最後はあなたが愛そのものであることを、
あなたが受け取るための呼び水に過ぎないことを、いずれ分かるときが来るでしょう。