存在そのものがメッセージになる

愛ある思いが、言葉を紡ぎ、人と人とをつないでいく

ひとりになること

「ひとり」

 

もし、集団の中でひとりになる瞬間があるとき、

 

みなさんはどう感じますか?

 

そんな場面に遭遇したとき、

 

「寂しい」

 

と私は感じました。

 

高校2年生のクラス替え直後、

 

しばらく、友達が出来なかったときに、

 

校外学習に行くことがあって、

 

「仲の良い同士で班を作りなさい」

 

と言われ、次々と班が出来上がっていく中、

 

「どうしよう」

 

そんな思いで、最後に見ず知らずの人と班になり、

 

交わす言葉も見つからず、

 

気まずくなって、当日の校外学習を休んだこともありました。

 

小・中学校では、友達もいて、そんな思いをしたことも、

 

抱いたこともありませんでした。

 

なんだか、目の前の景色が今までと違って見えたことを、

 

思い出します。

 

浪人を経て、「ひとり」に慣れてしまい、

 

友達はいても、ずっといるのが煩わしかったり、

 

大学の最寄り駅で待ち合わせをしている人達を見ると、

 

「大学生で、待ち合わせしてまでして、誰かといたいのかな」

 

と感じていた時期もありました。

 

この頃は、「ひとりになれない」人を見ると、

 

態度には出さずとも、腹が立っていました。

 

「ひとりになれない人はかっこ悪い」

 

完全に高校生の頃の反動でした。

 

集団で行動をしていても、心の底では、

 

「伝わらない」

 

「分かってもらえない」

 

「もどかしい」

 

と孤独を感じていたと後で聴くこともありました。

 

社会人を経て、

 

ひとりでいても、誰かといても、

 

それほど気にならなくなりましたが、

 

ひとりでいることって何でこんなに気になるんでしょうか?

 

そういえば、小学生の頃に、遠足の時に、

 

公園でひとりでぼーとしてたら、

 

「みんなと遊びなさい」って

 

注意されたことがありました(笑)

 

別に友達はいたし、ひとりも好きだから、

 

「別にいいじゃん」と思っていたら、

 

バスの中で、

 

「今回の遠足で根本君のことがよく分かった」

 

と当時の担任の先生に言われました。

 

心の中で、何が分かったんだろう、そして、そんなことで僕の全てが分かんのかなあと、当時思いましたが笑)

 

まあ、先生の配慮も今となっては分かるし、

 

その思いは、ありがたい事ですけど、

 

小さい頃から、

 

「ひとりでいること」

 

「ひとりになること」

 

に、恥ずかしさや後ろめたさを感じさせる

 

瞬間やそう取れてしまう言葉によって、

 

「ひとり=みじめ、さびしい、外れている」

 

という見方が出来ていました。

 

誰かに合わせたり、

 

自分自身がひとりになりたい思い、

 

ひとりになる時間が増えたとき、

 

この見方が自分自身を縛って、

 

苦しんだり、責めたりしています。

 

どこかで、周りにいる全ての人との共感や、自分の存在を承認を求めてしまうように、なればなるほど、

 

この見方は、どんどん強くなっていきます。

 

先日も、

 

「ひとり」に、何で「ぼっち」がつくのかなあ?

 

という話が出ました。

 

「ひとり」に「ぼっち」を付けなくていいのに

 

と思い、

 

なぜ、「ひとりぼっち」という言葉になったのかなと、考えました。

 

色々考えた末に、

 

「ぼっち」の正体は、

 

他者からの承認が自分の存在の承認とイコールになっているから。

 

実は、自分を承認するのは、

 

他人と違う、変わっていると感じてしまっている自分自身であり、

 

外に承認を促して、認めてもらうことではないんですね。

 

自分の在り様を認める前に、

 

変わっている自分にナイフを向けて、

 

相手に認めてもらわなくてもいいんです。

 

その人の個性や、聖性と言われる、愛がベースにある繋がりたい思いは、

 

周りの全ての人達と自分が大切なものを共有出来なくても、

 

そのままで、既に完璧なんです。

 

ぜひ、胸を張って、

 

自分を大切にしながら、

 

それぞれの世界観を育んでほしいなと、

 

まず自分に、

 

読んでくれる皆さんに

 

共に贈ります。

 

 

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